数値信仰とその弊害 Cult Of Dead Numbers
「確定バイアス」について Certainty Bias のページでも触れましたが、「数値」は、多くの人にとって
一種の「確定性」「確からしさ」、あるいは、その証として作用しがちです。
これは、元々数値というものが、人間が色々なものを比べて判断しようとした場合に、
自分の指の長さを使って比較するにしても、「指より少し長い」「指よりとても短い」といった
「程度の比較」から一歩進んで、「指を2回重ねた長さだ」とか「指の半分の長さだ」という
「定量的」な比較の方がより「抽象化」されていて、さらに「精度」が高いので信頼性も高い、
ということや、そもそもより信頼性が高くて、その結果を使って安心して判断できる為に
広まった方法であるかもしれないので、「数値」に対して人間が「信頼感」を
持ってしまうのは、自然であり、仕方のないことなのかもしれません。
もしかすると、一般化して、より抽象的な概念や言葉は、感覚的なものよりも無意識的な信頼を
呼び起こしやすいのかもしれません
また、抽象性が高い、シンボル化されたりした表現や概念は、より「高級そう」「偉そう」「正しそう」
「セレブ感」「勝ち組」「賢そう」な印象を与えやすく、「数値」についても、「信頼できそう」に
思えてしまう人も多いのでしょう。
しかし、「数値」と言えども、たとえとても単純な長さを測った場合であっても、
それは絶対に「完全に正確な値にはならない運命である」のを実感している人は少ないように思います。
これは、数値というものが、実世界の物事を抽象化して測定したりはじき出される場合に、
「必ず、ある程度、丸められている」「必ず、劣化している」「必ず、誤差がある」という、
あらゆる抽象化、モデル化、シンボル化の宿命を共有しているからです。
つまり、抽象化や数値化が「より正しい、精度の高い、信頼性のある」判断の為に
開発されたのだとしたら、ある意味で矛盾した性格をも併せ持っている、と言えるかもしれません。
別の言い方をするなら、抽象化や数値化などは、他のモデル化やシンボル化と同様、
「特定の範囲」を十分わきまえて、それに付随する「条件」を守るならば、
より明確な情報を提供するかもしれないが、その「範囲を逸脱したり」「条件をまもらない」なら、
判断を誤らせる様な情報を出してしまうかもしれない方法である、と思ってもよいでしょう。
喩えて言うなら、感覚的に、出刃包丁でザックリ切り分けて判断するのは大雑把かもしれないけど、
有効範囲が結構広いのに対し、もっと繊細なカッターナイフで切って調べると、
より細かいことが分かるかもしれないけれど、使い方を間違えると、刃が折れて怪我をしたり、
大きいものなどには刃が立たなかったり、「使いよう」によっては役にたつどころか、
大間違いの元になる、という感じでしょうか。
もちろん、数値表現や「学校で教えること」の危なっかしさや実用上の問題点などについては、
昔の農家などでも体感的に良く知られており、「子供を学校にやると馬鹿になる」などと
言われる場合もあったのです。
ただ、誤解して頂きたくないのですが、私は「数値化」や「抽象化」が悪い、とか
止めろ、とか、そんな馬鹿げたことを言いたいのではなく、「繊細な手法」
「繊細な道具」には、それ相応の注意をして、しなやかに使う必要がある、と言いたいのです。
また、その繊細な手法が、確かに優れた面を持っているからといって、いつでも
どこでも何にでも使える万能の絶対的に信頼できるものであるかの様に誤解し、
過信し、妄信し、追従するその癖は、出来たらもう少し注意して欲しい、ということです。
(これは、ある面で「優れた測定器」「優れた人」についても言えますが)
先ほどの、農家の子供が学校に行くと頭でっかちになったりして、仕事の邪魔になる、
といった例でも、数値や学問体系自体が悪いのではなく、その教え方などが問題だったのでしょう。
そこで、数値を含め、「何らかの抽象化」を含む情報(つまりは全ての認識)については、
その方法の「有効範囲」「必要な条件」を十二分に意識して、出来る限りそれらの
とても重要な付帯情報と「セット」で常に考えるように、自分でも練習したり、
教えたり伝達するときにも強調すると良いように思います。
これは、実は「言葉の定義」などにも言えることで(言葉は、色々と抽象化されたシンボルですので)、
その言葉が指し示す範囲やその範囲を限定するのに使った方法や条件などをセットで
やり取りしないと、とんでもない誤解や勘違いの元になったりしますし、
詭弁を使う人たちなどは、この様な条件を操作したりして、言葉の意味を捻じ曲げたりするわけです。
まとめると、「数値」を含め「抽象化」には、「有効範囲」「各種の条件」が不可欠であり、
この様なとっても基本的で重大な理解が欠けていると、「数値」を振り回したり、
「数値」に踊らされたり、「数値」を過信、妄信して、(TwitterのRTを含め)追従してしまう、
そんな習性をもった人間になってしまう。
これは、特定の単語、例えば「放射脳」「風評被害」「工作員」などを多用したり、
それらを過信、妄信、追従する場合と、基本的には全く仕組みで、
「確定バイアス」の一つの現れなのでしょう
「スペクトル測定」についていえば、「数値信仰」は、「定量信仰」「HPGe信仰」「測定器信仰」として現れたりします。
「数値」を見ると、多くの人は「わかったつもり」「安全が/危険が、判断できる」「正確で優れている」という
「思い込み」「盲信」に繋がり、似た人がさらに「追従」して、よくある「騒ぎ」や「集団Disりいじめ」や
「安全派/危険派の宗教戦争」になったりします。
言ってみれば、変な太った教祖を祭り上げるカルトの数々と似ていて、教祖などの代わりに「数値」や
「数値を出す機械」が祭り上げられて拝み崇められていて、それに賛同しない人を「敵」と
認識して攻撃したりしてしまう。
そこにあるのは、「不確かさ」「わからないこと」「不安」を過剰に恐れるあまり、偽りの「確定性」「絶対性」を
捏造してそれにすがってしまうカルト信者と同じような心理構造だと思います。
もちろん、東電はもとより、政府も、そして学者さんたちさえ信用出来ないという「現実」を見てしまい、
その中で「確かな情報」を求めるあまり、「確定性」「絶対性」「断定的な言葉」「断定してくれる人」に
頼ってしまう人が出るのも、無理のないことだと思います。
洗脳セミナーの潜入記録を読んだことがありますが、そこでは、参加した人たちがそれまで
「確かだ」を思っていたことをひっくり返して見せて、動揺させ、不安を高め、「確かさ」への飢え、
「飢餓状態」を作ることで、参加者がそのセミナーのアホな「代用の確かさ」に飛びついてしまうようにする
という様子が見て取れました。
また、「確かさ」を失った「喪失感」「不安」や、洗脳セミナーの手口の一環として
「確かさの無い状態」の恐怖を煽ったりするので、「偽の確かさ」に飛びついてしまった人たちは、
一種のPTSDの様になって、「もうあの不安な状態は体験したくない」という無意識の想いが強く、
「洗脳」を解くのは、難しくなります。
で、不幸なことに、今回の事故も、そういう洗脳セミナーと似たような状態を多くの人たちにもたらしてしまったのです。
日本の政府やマスコミや誤用学者は、空っぽの「安全・安心」という言葉を繰り返し、
多分、かなりの人たちは、それでもって「不安感をなだめている状態」ではないかと思います。
例えば、911の後のアメリカは、とてもよく計画されていたかのように、「確かさ」が失われた不安、
そして、自国内でさえ「身の危険」を感じる不安を巧妙に利用して、「テロとの戦争」という
「偽の確かさを得る手段」を植え付け、アメリカ人も多くはそれに追従してしまいました。
(「お人よし」は、日本人だけではなく、アメリカ人もカナダ人も、多くは、とっても優しいお人よしです。)
幸い、今のところ日本では、原発事故の後の不安を「悪用」する手法は、「それ程多くない」ので、
福島の原発事故が「計画されていた」ようには、私には思えませんが、
今後はどうなるのか、まだまだ分かりませんし、次の地震や次の事故/事件もあり得るので、
注意するのに越したことはないでしょう。
また、現在この「確かさの喪失」を一番感じているのは、「偽の安全・安心」に騙されない人たちで、
従って、こういう人たちが「被害者意識」に染まってしまい、場合によっては被害妄想を持ったり、
特徴的な行動や発言パターンを見せてしまうのも、仕方がないことかもしれません。
自分で放射線を測ろう、特にスペクトル測定をしよう、というのは、言ってみれば
単なる「食や環境の安全の為」というだけでなく、失われてしまった「確かさの感覚」を
自分の手で取り返す試み、という意味を含んでいる場合もあるように私には思えます。
そして、この様な場合、「確かさ」への飢えから、より「確か」に思える方法などを
追求するのですが、ここに「数値信仰」にはまってしまい、適用範囲を超えた数値を
確かなものだと頑なに思い込んで目に見えるスペクトルの現実を無視したり
捻じ曲げて解釈してまで、「確かさ」を演出しようとしてしまったりする場合もあるのでしょう。
「素人測定」として、自分で測定している分には、別にそういう勘違いも
一つの「過程」として通過するなら特に問題ないと思うのですが、残念なことに、
こういう症状には伝染性があるように思えるのです。
パニックに陥った人たちが、断定的な情報に飛びついて一斉に行動してしまうのと、
ちょっと似たような感じで、確かさに「飢えている人」は、他の人が(それが嘘でも)
確かさを得ているように見えると、自分も同じ様に「癒されたい」と
感じてしまうのではないだろうか、と思いました。
そこで、対症療法かもしれませんが、単なる数値よりも、目に見える「虹」の様な
スペクトルを見て、その山で判断すると、抽象性が低いので、「数値信仰病」を
発病する可能性が格段に低くなるし、山やギザギザの様子を繰り返し見ることで、
誤差の範囲やバラツキなどの理解も深まりますし、「数値」を取り扱うようになっても、
「スペクトルと数値の対応」や「整合性」に大きな狂いのない解釈が出来るように
なるのではないか、と思うのですが、機械もソフトも「数値信仰」にはまっている
人たちによって作られている場合も多いので、極一部の人を除き、
現状では、あまり有効に機能していません。
多分、今後もそんなに効かないでしょう。
また、この様な「確かさへの渇望」と「数値信仰」は、実は「学校へ行った子供たち」という
レベルに留まらず、実は教養のある人、教育程度の高い人、学者さん、技術者、などにも
かなり多く見られ、彼らは、「数値を見ると、安心してしまう、化かされてしまう」という傾向があり、
同時に「数値がないと馬鹿にする」という傾向もありますし、「科学信仰」や「ニセ科学憎悪」
という、分かりやすい症例として現れる場合も多いようです。
つまり、現在、どうして学者さんや技術者、そして測定に詳しい人たちに「危険派」が
少ないかと言うと、最初は心配して調べた測定しても、「数値」が出てくると、
それで「なんとなく無意識的には安心できる、対処できる」あるいは、「人間様は
賢いのでコントロール出来る」という様な、そんな心理が強く働いている様に思えます。
そして、おまけに、「極端な危険派」には、学問的に詳しくない人が多い様に見えるので、
「学問がわかる」「数値を理解できる」自分は、ああいう馬鹿とは違うのだ、と思って
蔑んだり、苛めの対称にしてしまったり、「貧乏vs金持ち」「無学vs頭が良い」「デマvs事実」
という様な短絡的で単純化された思考様式にはまり、「アラブvsユダヤ」の対立と、
心理的には全く同じ様な分かれ方で、双方ともに(飢えからくる各種の病状を共有する)「近親憎悪」
に掻き立てられて戦っていることに、おそらく死んでも気が付かないのでしょう。
この様に、どちらも「正義の味方」に変身し、敵を成敗する(妄想の)快感に中毒してしまうと、
もう、なかなかそこから抜け出ることはなく、オウムや他のカルト信者と同じで、
他の人への「共感能力」も著しく低下して、「聖戦」に身を投じてしまったりするわけです。
この様に、「数値信仰」というかなり多くの人が罹患していると思われる病状も、
掘り下げて見ると色々な側面があり、社会的現象すら引き起こしていると思われ、
なかなか侮れないものだと思います。
そして、「数値信仰」の構造から逆算すると、「確かさ」、それも「数値による見せ掛けの確かさ」よりも、
「高級そうで」「偉そうで」「精度が高そうで」「エコでグリーンでハイテクで」、要は飢えている人が
確かさを感じて安心できるような仕組みにしておけば、「目視によるスペクトル測定」も、もう少し繁盛して、
「数値信仰」を脱退して、原始的ながらとっても健康的でセクシーな「感覚的確かさ」と、
抽象化されて繊細だし、より条件が厳しい「数値的な確かさ」の両方を抱き合わせて、
「盲信、過信、追従」の必要がない状態になったり、その時その時にあると便利な「確かさ」の
味や種類やそれを得る手間隙についての経験や知識も持ち合わせるようになったり、
そんな夢物語のようなことになる可能性もあるのかな?と、妄想していたら新年の花火が始まったので、
終わりにしたいと思います。
謹賀新年
2014年1月1日0時0分
追加:
スペクトル測定に於ける数値信仰の症状:
危険派の場合は、スペクトルが十分落ち着いていない状態、不確かな状態、ピークの片鱗も見えない状態であっても、
測定器やソフトが数値を出すとそれを信じて、結果が「確かである」「明確である」などと主張する場合があります。
測定器は、汚染を見逃す(過小評価)よりも汚染を過大評価してしまう方が「安全」や「予防」には好ましいので、
ある程度の過大評価は意図的であり、問題無いと思います。
しかし、不確かな数値や、かなりの誤差を含んでいたり、あるいは、誤検出の可能性すらある様な場合に、
結果が「確か」である様に思い込んだり、他の人もそう思うようなことを言うのは、不正確なだけでなく色々な弊害をもたらしかねません。
特に、尿検査や毛髪などの検査に於いては、「汚染の診断」を下すようなものなので、たとえボランティア的に無料で行う場合であっても、
もっともっと慎重に測定し、解釈し、伝達する必要があるだろうと思います。
逆に、安全派の場合は、数値や下限値未満の測定結果を直ぐに「安全、安心」の保証書であるかのように誤用する、
という弊害が見られたりします。
酷い場合には、スペクトルにピークがあっても、ソフトや測定器の性能などの理由で「否検出」になったりすると、
汚染が「全くない」かのように思ったり言ったりする場合さえあるかもしれません。
また、汚染の割とはっきりした数値が出ても、その数値を年間の摂取量や被曝量に換算して、
その汚染が「全く問題ない」かのように主張する場合も多く見受けられます。
測定について詳しい人の場合は、感覚的な解釈や感情的な反応を良しとしない傾向がありますので、
過去に(主に原子力村によって)認められた仮説や仮定に基づいて考え、その結果、汚染の危険性について
過小評価しがちであると私は思います。
たとえば、セシウムは、一定の割合で(全て)体内から排出される、という様な仮定に基づいた計算がよくありますが、
体内の組織によっては、排出される速度が他の部位よりも遅い場所があったり、あまり排出されない組織さえ
あるかもしれないと思うのです。
そして、この様な場合には、その部位は重点的に被曝してしまい、健康上の問題が発生する可能性もあるかもしれません。
従って、現在までの(隠蔽され、恐らく歪められ)限られた仮説に基づいて考えていたら、誤った結論になる
可能性があると思うので、単純に「科学的」「論理的」に見える考え方をすると、大間違いの元になるかもしれないと思います。
この様に、危険派側、安全派側のどちらに於いても、スペクトルをしっかり見ることで、
ありがちな誤検出や間違いを避けるだけでなく、数値に振り回されるのではなく、
数値をその「不確かさ」やスペクトルとの相関性を含めてきちんと受け止めて解釈するように出来るなら、
上記の様な「弊害」を減らせるのではないかと思います。
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